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Atlas(地図)というブログタイトルのとおり、読者のみなさまのキャリアや思考の道しるべとなる情報を発信していきます

オウム死刑囚が執筆した論文をレビューする

T. Nakagawa, A. T. Tu, “Murders with VX: Aum Shinrikyo in Japan and the assassination of Kim Jong-Nam in Malaysia,” Forensic Toxicol., 2018, in press [link].

オウム真理教の元信者、中川智正死刑囚が執筆した論文が学術誌に掲載されたというニュースが飛び込んできた [link]。ニュースを見た時は「どうせ後ろの方に名前を載せてもらっただけだろ」と思っていたのだが、実際に論文を読んでみてビックリ。ファーストオーサー(筆頭著者)として論文を執筆している。

タイトルは「Murders with VX: Aum Shinrikyo in Japan and the assassination of Kim Jong-Nam in Malaysia(VXによる殺人~日本におけるオウム真理教とマレーシアでの金正男氏暗殺)」だ。本記事では、「死刑囚が書いた科学論文」という、世にも珍しい論文を紹介する。

最初に断っておくが、私は化学の修士号を持ってはいるものの、化学兵器やオウム真理教に関する知識はあまり持ち合わせていない。調査をした上で記事を書いているが、参照元がWikipediaなどのネット記事であるため、もしかしたら間違っている箇所があるかもしれない。その点ご了承ください。

著者について

中川 智正

本論文は、中川氏と杜祖健(と そけん、英語名:Anthony Tu)博士による共著論文となっている。中川氏は言わずと知れた元オウム真理教の幹部で、確定死刑囚である。

同じく死刑確定囚である土谷正実らと共に化学兵器製造に従事し、松本サリン事件では実行犯にも加わった。現在は広島拘置所に収容されている。

杜 祖健

共著者である杜博士は、米コロラド州立大学の名誉教授であり、毒性学、生物化学兵器の専門家だ。台湾出身だが、非常に日本語が流暢である(気になる方は動画を探してみてください)。

毎日新聞の記事には「毒物研究の世界的権威」と記されている。調べてみると、ResearchGateのプロフィールページを見つけた [link]。300報近い論文を世に出しており、引用数も5,000を超える立派な科学者である。「世界的権威」という形容にもうなずける。

杜博士はオウム真理教事件にとても関わりが深い人物だ。彼は1994年に日本の専門誌「現代化学」に化学兵器に関する論文を載せており、それを読んだ土谷氏がVXを作ることを思いついたと言われている。

その後、一連のサリン事件において、化学物質の分析方法を日本警察に提供し協力している。

つまり、この論文はオウム真理教事件の実行犯と警察に協力した人物のタッグによって執筆されているのである(!)。漫画のような展開だ。

執筆に至った経緯

杜博士は次のように語っている。

私はテロ対策の目的で面会を重ねましたが、中川死刑囚はいつも記憶に従い率直に話してくれました。

昨秋の面会時に、中川氏から『自分の経験を社会に役立てたいので英文で論文を書きたい』と聞いて協力し、権威ある専門誌に掲載できました。

長年、日本の法務省や拘置所が面会を許可してくれたことに感謝しています。

つまり、中川氏自らが執筆を申し出たのだ

内容紹介

掲載雑誌について

本論文は日本法中毒学会が編集・出版する"Forensic Toxicology"という雑誌に掲載されている。インパクトファクターは3.744と高く、優れた学術誌に思える。毒物学の分野では有名なのだろうか?

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概要

論文の前半では、オウム真理教内でのVX製造・使用の経緯が記され、後半では金正男暗殺事件で使用されたVXについての考察が行われている。簡潔に書かれていて非常に読みやすい。

また、中川氏の所属機関が"Hiroshima Detention Center(広島拘置所)"なのも非常に興味深い。刑務所から論文を出した研究者が未だかつていただろうか?世界中探し回ったらいるのだろうか...。

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VXの化学構造式

当事者によって記されたオウム事件の詳細

論文の文章から漂うのは、圧倒的な「当事者感」である。特にこの文章がすごい。

There is no documentation regarding the toxic nature of the two types of VX (salt-free and HCl) in the literature; however, this was actually shown by Aum Shirikyo’s terrorist action. This was known only by two persons who were involved in the manufacture of VX. The first author of this paper was actually involved in such manufacturing [unpublished observation].

この二種類のタイプのVXの毒性に言及した文書は存在しない。しかし、その毒性はオウム真理教事件によって証明されている。これはVXの製造に携わっていた2人(つまり、中川智正と土谷正実)だけが知っている。この論文の筆頭著者は実際に製造に関わっていた(未発表)。

どうでしょう、この当事者感。ふつう、論文で「この物質の毒性についての先行研究はないよ。でも自分で使ったから知ってる!」なんて書いたら、その時点でrejectされると思うのだが、オウム事件ともなれば言葉の説得力がものすごい。

文末にunpublished observationと補足されているのも何だかおもしろい。普通の研究者がこんなことを書けば「本当にその実験、やったの?」と疑われるところだが、このケースではデータが世に出ることはありえない。世間に知られてしまえばテロを実行できなくなってしまう。

金正男暗殺に用いられたVXに関する考察

本論文の真骨頂は後半部分である。後半では、金正男暗殺事件に使用されたVXについての考察がなされる。

未だ記憶に新しい金正男暗殺事件。2017年2月13日、マレーシアのクアラルンプール国際空港にて、北朝鮮の最高指導者である金正恩の兄、金正男がベトナム人とインドネシア人の女性2人による襲撃を受け、病院へ搬送される最中に死亡した。

事件発生直後は殺害に殺虫剤が使用されたと報道されたが、後の調査で神経毒VXの使用が確認されている。驚くべきは、犯行が短時間のうちに手際よく行われたことである。2人の女性がそれぞれ金氏の顔に触れているが、犯行にかかった時間はたった7秒であった。

もしVXが直接使用されたのであれば、どのようにして手に猛毒を塗ったのだろう。しかも、直接使用していれば加害者である女性自身も死んでしまうかもしれない。

調査の結果わかったのは、インドネシア女性とベトナム人女性の体から検出された化学物質はそれぞれ全く異なるものであるということだ。このことから、事件で使用されたVXは二種混合型(バイナリー型)であると著者らは結論づけている

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2人の女性から検出された物質が全く異なることが分かる

バイナリー兵器(二種混合型化学兵器)は、毒物の代わりに、その前駆体となる2種類の物質が容器内に隔離された状態で保存されている化学兵器のことであり、それらを反応されることによって毒物を発生させる。

今回のケースでは、VXの前駆体(毒性は低い)を2人の女性がそれぞれ所有し、金氏の顔の上で2種類の物質を反応させ、VXを発生させたことになる。そのため、2人の身体からは全く異なる種類の化学物質が検出されたのである。

検出結果より、2つの前駆体はそれぞれethyl methylphosphonic acid、2-(diisopropylamino)ethanethiolだと著者らは予想している。VXを低温で発生させることは難しいため、何らかの触媒が使用されたか、温度を上げる処理がなされた可能性があると指摘している。 

死刑囚をも受け容れる「科学」の懐の深さ

論文を読んで思ったのは「この論文、意外とよくできてね?」ということである(失礼)。もちろん、データが少なかったり論理が曖昧だったりする箇所はあるが、きちんと科学論文の体を成している。加えて、化学テロの実行犯が記した事件記録としても質が高いものになっている。

ジャニーズ「タッキー&翼」の滝沢秀明氏が著者として名を連ねる論文が出版され、話題を呼んだことは記憶に新しい。今回はなんと、死刑囚である。アイドルのみならず死刑囚まで受け容れてしまう科学の懐の深さには驚嘆するしかない。

日本全国の不遇な大学院生たちが「死刑囚ですら論文持ってるのに、君は持ってないの?」と煽られるのも時間の問題である。

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悪質なマウンティングをしないよう気をつけましょう