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日本の科学界を閉鎖的にしないために我々ができることを考えてみる:SNSは専門分野の檻を破壊できる

最終更新日:2017年9月25日

記事作成者:Naoki Oguri(@Wynne_D_

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2017年5月、文部科学省が6年一貫制の工学系教育課程の導入を発表した。大学の工学部を中心に、従来は分かれている学部(4年)と修士(2年)を合わせて6年の一貫制プログラムとし、柔軟なカリキュラムを組むそうだ。この変更の狙いは、自分の専門分野だけに詳しい人材が多くなってきたため、周辺分野の知識も持つ人材を育てたいということにあるらしい。

本記事では、この変更案を受けて私が考えたことを記し、少しでも日本の科学界を良い場所にするためにはどうすれば良いかということを思案してみる。なお、私は教育や教育制度には明るくないので、間違っている箇所があれば気軽にご指摘いただきたい。意識高い若者の戯言だと思ってくれれば幸いだ。

さて、私はこの改善案にはどちらかと言えば反対である。理由は2つある。

  1. 幅広い知識を持つジェネラリストを高等教育で育成するより、スペシャリスト同士が相互作用しやすい場を整備する方が効果的であるから
  2. 自分の専門分野だけに詳しい人材が日本に多い”根本的な”原因は、高等教育のシステムではなく、社会観念の方にあるから

ジェネラリストの育成ではなく、スペシャリストが相互作用できる場を

まず、複数の分野に詳しいジェネラリストを育成するよりは、長い年月をかけてスペシャリストを育成し、スペシャリスト達が情報交換・議論を行いやすい環境を整える方が理にかなっている、ということだ。6年間程度の学習では人間はスペシャリストにはなれない。研究業界の場合、博士号を取って初めてスペシャリストだと認められるはずだ(自分も取らねば...)。6年間で専門とその周辺分野の知識を教えるのは、スペシャリストというよりはジェネラリストを育成する方法になるだろう。

人間の記憶力には限界があり、脳内にストックしておける知識量はあまり多くない。現在、科学の進歩するスピードは異常なほど早く、また、「ビックデータ」という言葉に代表されるよう、扱える情報量も爆発的に増加している。このような状況で1人の人間に複数の分野をフォローさせようとすると、薄い知識しか持たない人材ができあがってしまうかもしれない。

ジェネラリストであれスペシャリストであれ、「プロ」になるにはある程度の実践力がなくてはならない。浅い知識しか持っていないと実践レベルまで達することが難しくなる。本来、「自分の興味や専門分野をとことん追求していったら、たまたま別の分野の内容にまで手が及んでしまった」、というのが理想であると思う(前の分野をやめて今の分野に来た私が言うとかなり説得力がないのだが...自戒も込めて)。

ジェネラリストが1人で学際領域を切り拓くよりも、スペシャリスト同士で協力しながら研究を行い、学際領域を切り拓く方が効果的だと私は思う。必要なのは「知識」ではなく、「他分野への興味」だ。そしてその興味を惹き立てる場がもっと必要である。

記事には「6年一貫制として時間を十分確保することで、柔軟なカリキュラムを組むことができ、専門分野の深い知識を習得するとともに、他の分野の幅広い知識も持つ人材を育成できるとしている」とある。柔軟なカリキュラムを組むことは賛成だ。しかし、それは単純に学科のカリキュラムを緩めれば良いだけの話であって、わざわざ6年制にする必要はないのではないか?学科・学部間の単位互換を認めるなどして、もっと簡単に実現できないのだろうか。一貫制を導入するためにお金を使う必要があるのだろうか...。

タコツボ化の原因は知識の不足ではなく閉鎖的なマインドセットにある

日本の科学界がタコツボ化している原因は、日本の排他的な社会観念にあるのではないかと思っている。それはつまり、「お前はよそ者・素人なのだから、黙って私たちに従っていなさい」というような考えを持つ人間が日本には多いということだ。大学院を出た高学歴な人間だけでなく、高等教育を経験していない人間にもこのような考えを持つ人が多い。そのため、高等教育の教育制度を変えてもこのマインドセットを変えることはおそらく出来ないと私は考える。

もちろん、日本の大学・大学院には学際分野や新興領域を学べる学科が(例えば)アメリカやイギリスと比べて少ないため、そういった古臭い高等教育制度が日本人の排他的な社会観念を形作っている可能性はある。しかしながら、その場合、中等教育(中学・高校)のみを終えて社会に出ていった人はそこまで排他的な思考を持っていないということになるが、実際はそんなことはないだろう。「村八分」という言葉があるくらいだし、この排他的観念は年月をかけて社会全体に浸透してきたものなのだろうと予測する。

このような社会観念が浸透した原因を特定するのは難しいが、おそらく、日本が島国であることが関係していると思われる。これについては既に議論し尽くされた印象があるけれども、ここでは私の勝手な想像を述べさせて頂く。

周りを海に囲まれた日本では、日本人は外の世界と交流しなくても生きてくることができた(鎖国なんて制度もあった)。そのため、自分と異なる意見・価値観を持つ人を受け入れる寛容さを持つより、自分が今いる環境に最適化し異分子を排除することの方が社会的地位を築くのに有利であったのかもしれない。排他的な行動を取る方が適応的であったため、そのような人間ばかりが生き残り、その血が現代の我々にも受け継がれているのではないだろうか。ということで、幅広い専門知識を身につけようが、根本的な問題解決にはならないのではないだろうか。

遺伝子に組み込まれているのだからどうしようもないと思うかもしれないが、おそらく教育環境を変えることでどうにかできるだろう。例えば、「お前は科学に詳しくないのだから科学について語るな」と言う人はいても(SNSによくいる)、「お前は野球に詳しくないのだから野球について語るな」と言う人はそこまで多くないだろう。スポーツのように、別に詳しくなくても語っていいのだ。専門家にとっても、専門外の人と議論を行うことは、自分の専門について客観的な意見を得たり、専門家には思いつかないような斬新なアイデアを得たりなど、メリットはたくさんあるはずだ。分野外からの意見を拒絶する者は、フィルターバブルの中に閉じ込められ、いつか淘汰されてしまう可能性がある。

SNSは新時代のScholeとなる

さて、これまでのポイントをまとめてみる。日本の科学界をより良い場所にするために必要なのは

  1. 専門家たちが交流する場をたくさん設ける
  2. 日本人の伝統的な村八分の価値観を変える

の2点であると私は考えている。

文句を言うなら簡単である。どう行動に移すかが肝要である。未熟な意見ではあるが、私見を述べさせていただく。

「専門家たちの交流場」と言われて一番初めに思い浮かぶのが学会である。クローズドな環境で、専門家たちがそれぞれ自分の研究を発表し、聴衆がそれについて質問することで議論が行われている。だが堅苦しい、ものすごく。著名な人物には話しかけづらい。このような緊迫しきった場から独創的なアイデアが湧いて来るとは思えない。もちろん湧くのだが、もっとカジュアルに議論できる場の方が独創的なアイデアが思いつくのではないだろうか。

カジュアルでオープンに議論できる便利な場所、それはSNSだ。日本の場合、特にTwitterが学者たちに人気である。(良い意味で)暇な学者がTwitterで好き勝手に私見や専門知識をつぶやいている。これは非常に素晴らしいことだ。

School(学校)の語源は、ギリシャ語のScholaである。Scholaの本来の意味は「ひま」であり、識者たちが暇な時間に集まって議論をしていたことから、そのような場所を指す言葉ということで、「学校」という意味になったらしい。まさしく今のTwitterではないか。そして、Twitterが既存の学校より優れているのは、誰にでも開かれており、かつ、いつでもどこでも議論に参加できるということである。まさにScholaの完全上位互換である。

Twitterで議論が盛り上がり、より専門的な議論を行いたい場合は、興味がある人を募ってクローズな場を設ければ良い。これはFacebookなどでよく行われているようだ。別にクローズな場を作らなくとも、Twitterの場合、何らかのハッシュタグを付けて議論を行えば話の筋は追えるし、一般の人からの意見も募れるので良いのではないだろうか。

日本人の排他的な価値観を変えることにもSNSが一役買ってくれるだろう。例えばTwitterの場合、最も多いのは10代の利用者であり、その次に20代が続く。若い世代が多いのだ。上の年代の者が「誰でも議論に参加していいよ!」と言いさえすれば、喜んで議論に参加してくる者は多いと思う。そして、それが若い世代から排他的価値観を取り除く一助となる。若い世代には、学校で「間違うことは悪いことだ。詳しくないのなら黙っていなさい」という価値観を植えつけられている者が未だに多いと思う(教師が意図するしないに関わらず)。その価値観を若い世代から取り去る必要がある。逆に、間違った意見を言った人を激しく罵倒するような雰囲気があれば、かえって逆効果になる。

SNSでの交流においては、以下の4点を気をつければ、(本当に)誰でも専門的な議論に参加して良いと私は考える。 

 「専門家でなければ意見を述べてはいけない」という価値観に私は真っ向から反対したい。好きであれば、興味があれば、誰でも学問について語って良いと思う。もちろん、わざと誤った情報を流す輩もいる。彼らのような者がいるから「詳しくないなら黙れ」という考えを持ってしまうのは分かるが、日本がこれから目指すべきは「間違った情報を見抜こうとする姿勢やリテラシーを国民に身につけさせる」ことであると思う。そしてその姿勢やリテラシーは、実際に情報収集をしたり人と話したりしないと身につかない実践的スキルであると私は思う。

政治家でも官僚でもない者には現状を大きく変えることはできないが、SNSで楽しく議論を行い、場を盛り上げるくらいはできる。もちろんSNSなんて好きに使っていいのだが、自分の気に入らない者を虐げたり、若い芽を潰したりしないよう、私は気をつけようと思っている。そして、なるべく多くの子供が「自分の頭で考えたことを口に出すのが大切なんだ」と思ってくれるようになれば良いと私は思っている。